黒い羊 それが来たのはちょうど昼食のパスタをフォ−クに巻き取った時だった。 テュール好みに普通よりも柔らかく茹で上げられた細長い麺に絡まるソースは、ベースに使ったトマトの果肉も大きめで素材の味を楽しめるようになっている。目に鮮やかな食欲をそそる赤に沸き立つ白い湯気。見た目に違わず酸味も程良く効いて美味な代物であるのは先刻承知だ。彼の弟子は意外に思われるが、家事全般をパーフェクトにこなす。しかも男の理想通りの味をいつだとて提供してくれるのだから感激も一押しである。 よって男は耳障りに鳴り響くコールと手に取ったパスタとを天秤に掛けて、いともあっさりと食欲を取った。 「うおおい!とっとと出ろお!!」 口の中に拡がった至福に柔和な顔をさらにとろけさせたテュールに、向かいに座って自分用に作った標準通りの堅さのパスタを口に運んでいた少年が、ただでさえ吊り上がった目をさらにつり上げて怒鳴りつけてくる。 兇悪な目つきで睨んでくるスクアーロへ嫌そうな顔を向けて、剣帝はこの子は少々まじめすぎるとため息をついた。 何事もほどほどに。人生に息抜きは必須であり、楽しみを忘れてはいけないというのがテュールの持論だ。第一任務の通達が少し遅れる程度で結果に変わりがあろうはずもない。 しかしこのまま食事を続けようとすれば、彼に至福を約束してくれるこのトマトパスタはスクアーロによって容赦なく取り上げられるだろう。それだけはごめん被りたい。 テュールはフォ−クを置いて、代わりに持ち上げた鳴りやまぬ携帯の通話ボタンを、内心を如実に表すいかにもな態度で、実にいやいやと押した。 ――邪魔をしたようだね。食事中だったのかね? 鼓膜をふるわせる枯れた、だが暖かみのある男の声にテュールの不機嫌は倦怠となった。この人物からの繋ぎはいつだって厄介ごとの持ち込みで、内容は常時面倒ごとを押しつけられているヴァリアー内においても特SSとランクづけられるものばかりと相場が決まっている。 「あなた自らとは珍しい。何かありましたか?ドン・ボンゴレ」 男が電話に出た時点で我関せずと食事に戻っていたスクアーロが、最後に付け足された呼称に反応を示す。水の入ったコップを傾ける白い手が一瞬止まって活動を再開したが、少年がガラスに口をつけたまま耳をそばだてているのがわかる。興味を持ったことを如実に現すスクアーロに手をひらひらと振って食事を続けなさいと促して、テュールはまともに話を聴く態勢に入った。 ――テュール いつものことながら己までも厳粛な心地にさせる不思議な声音だと、剣帝は内心でうなる。忠誠を誓ってはいるが、心酔しているわけではない己までもそうなのだから、彼を崇める輩がどうなのかは推して知るべし。流石はボンゴレのボスを名乗るだけはある人物だ。その相手が、テュールに果てさて何を命じるつもりか。 ――あの子を助けて欲しい 「あの子?」 出し抜けに切り出された沈痛な懇願に問い返すも、彼は9代目がそう呼ぶ存在が一人しかいないことを知っていた。 ドン・ボンゴレの命を狙った大罪人の子供。 9代目の寵愛を受けた愛人の、裏切りを働いた女の胎から産み落とされた赤子。 何よりも尊く価値ある血統に誕生し、絶対の栄光と罪過を背負う、9代目が血肉をわけた最愛の息子。 ザンザス。 誰よりも祝福されて産まれて来たはずの子供は、母の過ちによってもっとも忌まれるべき存在へと成り下がった。 9代目の命を奪うためだけに、愛人となり子まで成した黒髪の美しい女。 ファミリーが崇拝すべき9代目の愛情すら利用し反逆を働いた女への憤りは、当然のように全て息子たるザンザスへと向けられた。 その定説と言えば定説の成り行きを、剣帝たる男はと言えば愚行と一言で切って捨てる。 超直感を備えた9代目が女の思惑を悟っておらぬはずもなく、そうと知っていてさえ彼は女を愛し、愛人という地位までも与えファミリーへ迎え入れたのだ。だが少し頭を巡らせれば容易く知れる事実を見もしない暗愚な輩は呆れるほど多い。 そうして同じ程に、女は愚かだった。あんな手段を選びさえしなければ真実は闇に葬られ、彼女は今も生きて変わらぬ立場にいたはずだ。 ――私は動くわけにはいかない ファミリーを思い憚り、愛すべき息子にそれを注ぐことのてきない老いた男の吐き出す慟哭に、剣帝は赤い虹彩の子供を脳裏へ描く。 愛情を示されることなく育つ、周囲に疎まれた忌み子。 その命が危険に晒されるのは、幾度目のことか。 ――だから、テュール。私の代わりに、あの子を助けてくれ 「私が?」 ――君がだ。私が他の誰かに命じてあの子を助けることは容易い。だが、悲しいことに私があの子を擁護するのを快く思わない者は多い。 「そうでしょうね」 ――ファミリーの秩序のために、私が命じたという事実は残ってはならない。誰かが、自発的に行動しなければ…そして、それはあの子を疎んじている者であってはいけない。不満はいずれ真実を露呈させる最大の要因になるのだから 「私の他にも、貴方の真意を汲み取っている者はいくらでもとは言いませんが、存在しますよ」 ――テュール。わかっているだろう? まるで反抗期の子供をさとすように話す9代目に、テュールは苦笑する。ヴァリアーのボスという地位、剣帝という異名。己に手を出すのはよほどの馬鹿か大物か。向けられた害意をものともしないという評価は正しく、男自身、その自負はある。 己が9代目の望む役柄にうってつけなのはわかるが、一度手を貸してそれで終わりというわけにもいくまい。 「今回限りならともかく、ずっとでしょう?子供のお守りに事あるごとに駆り出されるのはごめんですね。第一、あの子供が命を狙われるのなんて今更でしょうに。何故今になってそんなことをおっしゃるんです」 ドン・ボンゴレの息子というだけで暗殺の危機は常に身近だ。まして、あの子供の立場ならば今回が初めてというわけではないだろう。今まで何の手立ても打たなかった癖に、何故今更という感が強い。 ――今までは、あの子の力で対処できる範囲だ。しかし今度ばかりはあの子では及ぶまい そこでしばし言葉を詰めて、ドン・ボンゴレは苦渋を滴らせテュールに告げた。 ――並大抵の相手では、アレは引き下がらないのだよ その言葉に、テュールは全てを悟った。 「今回の首謀者は、エンリコですか」 ザンザスの兄であるボンゴレの正当後継者に、やっかいなことをしてくれると剣帝は内心で毒づいた。彼は父が実際の所ザンザスを己よりも愛しく思っているのを知っているし、それを吹聴するような馬鹿でもない。が、なにが起こるかわからない将来を見越して弟の処分に乗り出したわけだ。 エンリコが相手ではどうあっても断ることは出来ないと、剣帝はかれから敬遠する面倒を否応なしに押し付けられていく心積もりをすることにした。 エンリコが表だってザンザスを廃除しようと動き出したと知れれば、それに便乗して子供の命を狙う一派は無尽蔵に増える。そして、今までその血筋故に静観を決め込んできたボンゴレというブランドに何よりも固執する老人達もが重い腰を上げることは目に見えている。 それらを少しでも牽制する為に、9代目はどんなにテュールが渋った所で、剣帝がザンザスの守護に着いたという名目を欲して引き下がりはしない。 此処はいい加減潔く諦めて、腹をくくるしかないだろう。 「やれやれ。また私の立場が悪くなりますねぇ」 ――すまないね、テュール 「せいぜい報酬ははずんで下さい」 謝罪はしても撤回する気はない9代目に聞こえよがしのため息をついて、テュールは食卓に乗っている皿に盛りつけられた料理の数々に恋々とした視線を投げて立ち上がる。 残念ながら昼食はお預けだ。常のような暗殺ならば暢気に食事を続けることも出来たが、人命救助では一刻を争う。こうして話している間にもザンザスの命は消えているかもしれず、ひた隠しにはしている子供を思う9代目の焦燥も増すのだ。己が手で救うことの出来る力を持ちながら、ただ待つことしかできない。そのもどかしさは絶えず老人をさいなみ、苦しめる。 「ええ、はい。それでは」 必要な情報を仕入れてからテュールが通話を切ると、じっとその言動を観察していたのだろう少年が、待ち構えていたとでも言うようににやりと口の端を引き上げて己も席をたった。 「うおおい、おもしろうだな。俺も連れてけぇ」 既に椅子の脇へ立てかけていた愛用の剣を手に取っていることからして、たとえ許可が降りずとも着いて来る気満々だ。常人離れして耳の良い少年には通話内容も当然伝わっているだろうから、置いていっても無駄だろう。 ならば大人しく連れて行く方がいいに決まっている。 あっさりと承諾した剣帝は、しかし少年の席にある皿の中身がきれいに無くなっているのを確認して、恨みがましい目で上機嫌に青い無地のエプロンを外している少年を睨む。 盗み聞きしながらちゃっかりと自分だけ食事をすませたスクアーロに、たとえどんなに抗議しても後でまた同じものを作らせてやろうと、冷え切ったパスタを食べるつもりのさらさら無い剣帝は心中で硬く堅く誓った。 |